万叶第二期歌人之柿本人麻吕(二)
柿本人麻吕的私挽歌
柿本人麻呂像
泣血哀恸歌
《泣血哀恸歌》是柿本人麻吕在妻子亡故后所创作的长歌群,属于“私挽歌”作品,但由于柿本人麻吕的事迹在史书上没有记载,因此该作品成立的具体时间、以及各种的妻子究竟是谁等问题,现在已经无从探寻。作品内容如下:
柿本朝臣人麻呂妻死後泣血哀慟作歌
天飛ぶや 軽の道は
我妹子が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど
止まず行かば 人目を多み
数多く行かば 人知りぬべみ
さね葛 雲か来るごと
大船の 思ひ頼みて
たまかぎる 磐垣淵の
こもりのみ 恋ひつつあるに
渡る日の 暮れぬるがごと
照る月の 雲隠るごと
沖つ藻の 靡きし妹は
黄葉の 過ぎて去にきと
玉梓の 使の言へば
梓弓 音に聞きて
言はむ術 せむすべ知らに
音のみを 聞きて有得ねば
我が恋ふる 千重の一重も
慰もる 心もありやと
我妹子が 止まず出見し
軽市に 我が立ち聞けば
玉だすき 畝傍山に
鳴く鳥の 声も聴かず
たまほこの 道行き人も
一人だに 似てし行かねば
術を無み 妹が名呼びて 袖そ振りつる
雁翔天高飞山城橿原轻之道
此为吾妹子爱妻所住故里矣
故欲勤深情顾见几度复详观
然以不断繁行者人目多兮为人见
数回几番去顾者耳目繁兮为人知
真葛蔓末络今虽相离后欲逢
犹乘大船兮思赖嘱托寄所念
玉极辉耀兮其如磐垣石墻渊
唯有避人目窃恋隐慕常系心
一犹渡日之划虚西斜暮没地
又若照月之云隐不见蔽昙间
沖津珠玉藻靡来相寢吾妹者
移落如黃叶儚俄迁转衰逝去
玉梓华杖兮使人述言听闻者
梓弓发振鸣耳闻口寄托宣音
不知和所言无术不知和所措
纵欲闻汝声些细此欲不得偿
吾恋慕欲逢纵令千重唯一遇
情欣念得慰吾心切望抱此情
亲亲吾妹子生前繁往常出見
橿原轻地市集间吾立此市竖耳闻
玉襷挂手襁大和国中畝傍山
山中喧鸟之鸣音妻声亦不闻
玉桙石柱兮行道众间寻伊人
观面千百度莫有容似影类者
茫然手無措唯有放声唤妹名徒然挥袖忧世间
菊池容斋《前贤故事》中的人麻吕画像
吉备津采女挽歌
《吉备津采女挽歌》是人麻吕的“私挽歌”作品中比较有代表性的一首。吉备津采女的姓名不详,出身于吉备国的津郡,是一位女官。因私自结婚被察觉,最后自杀。作品内容如下:
吉備津采女死之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首
秋山の したへる妹
なよ竹の とをよる子らは
いかさまに 思ひ居れか
たく縄の 長き命を
露こそば 朝に置きて
夕へは 消ゆといへ
霧こそば 夕へに立ちて
朝は 失すといへ
梓弓 音聞く我も
おほに見し こと悔しきを
しきたへの 手枕まきて
剣大刀 身に添へ寝けむ
若草の その夫の子は
寂しみか 思ひて寝らむ
悔しみか 思ひ恋ふらむ
時ならず 過ぎにし子らが
朝露のごと 夕霧のごと
汉译如下:
枫红秋山兮 赩容妍貌娘子矣
纤细弱竹兮 窈窕橈然淑女矣
是怀何所思 又怀何所念也歟
其命如栲绳 本当长寿健長青
然却如朝露 晨分置兮不久长
时至夕方者 朝露消散去无踪
然却犹夕雾 暮时起兮存续短
时至翌朝者 夕雾失散徒飘渺
梓弓发振鸣 耳闻死讯方寸乱
后悔已莫及 只恨当初凡视之
敷栲衾褥兮 交袖共枕相缠绵
华剑大刀兮 副身共寢不离身
亲亲若草兮 其夫子者意如何
方寸寂且寞 挂念伊人独孤寢
哀悼悔且恨 思慕故人度终日
其命不当绝 非時殒命娘子矣
香消朝露所如也 玉殒夕雾所如也
歌川国芳所画的柿本人麻吕像
END
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